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【あの時私は 戦後80年20紙企画】 (4) 《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(4) 1945年3月18日 大分 外山 健一さん(88)

「機銃掃射と爆撃の音が忘れられない」と語る外山健一さん=1月10日、別府市役所(山戸孝哉撮影)
「機銃掃射と爆撃の音が忘れられない」と語る外山健一さん=1月10日、別府市役所(山戸孝哉撮影)
空襲を受ける大分海軍航空基地=1945年3月18日、米軍機から撮影(豊の国宇佐市塾提供)
空襲を受ける大分海軍航空基地=1945年3月18日、米軍機から撮影(豊の国宇佐市塾提供)
外山健一さんがいた場所
外山健一さんがいた場所


■拾った薬きょうに熱 爆撃と銃火おびえる

町で暮らす子どもに爆撃機が迫ってきた。

1945年3月18日は日曜日だった。午前9時前、友達と遊ぼうと、大分市中心部の近くに住んでいた外山健一さん(88)=大分県別府市馬場=は自宅から外に出た。

「ブーン…」。うなるような低音を耳にし、空を見上げた。ずんぐりした灰色の飛行機が30機ほど、編隊を組んで向かってくる。大慌てで家へ戻り、庭の防空壕(ごう)に飛び込んだ。

当時、国民学校初等科(小学校)の2年生。「初めて見た敵機だった。あの日のことは寸分たがわず頭にこびりついて離れない」。80年前の出来事を「一番恐怖の一日だった」と振り返った。

飛来したのは、九州沖の米空母から発進した艦上爆撃機と戦闘機だった。米軍はこの日、九州各地の航空基地を波状攻撃。沖縄上陸作戦を前に、日本軍の航空戦力をそぐ狙いがあった。大分県内の本格的な空襲は初めてだった。

外山さん方の川向かいには大分海軍航空基地と海軍航空廠(しょう)(工場)があった。米軍機は数時間の間を置いて一帯を繰り返し襲った。「バリバリッ」「キーン」-。機銃掃射と爆撃による雷のような音と、弾が鉄骨に当たる甲高い音が夕方まで響いた。

「音がやむたびに防空壕の外に出て遊んだ。銃弾の薬きょうがいっぱい落ちていて、寒い時季なのにまだぬくもりがあった」。小さな手で拾い上げた感触を今でも覚えている。

終戦までの約5カ月間、米軍機の襲来は日常になった。学校の授業中に警戒警報のサイレンが流れ、下校途中には空襲警報が鳴る。避難のため通学路沿いの水路に飛び込む日々が続いた。

至近距離の爆発で鼓膜や眼球がやられないよう、両手の親指で耳の穴をふさぎ、残りの指で目や鼻を押さえて低い姿勢を取るよう教えられていた。「けがをして苦しむんじゃなくて、いっそ爆弾が直撃してほしい」。家族でそんな会話をした。

爆撃と銃火におびえ、食糧難にも苦しんだ暮らし。「今の人たちには想像もつかないような話でしょ」と静かに問いかける。

「終戦から80年、日本は戦争をしなかった。それが生きていて一番幸せ。これからも争いのない時代を築いてほしい」。祈るように語った。(大分合同新聞・佐藤光里)(随時連載)

★3月18日の空襲

沖縄上陸作戦の支援を任務とする米艦隊が九州の東に接近し、空母16隻から約1200機の艦載機を発進。九州と四国西部の飛行場約30カ所と周辺を攻撃した。日本軍も特攻機を含む航空隊が応戦した。翌19日の空襲では広島県の呉軍港などが攻撃を受けた。



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