【あの時私は 戦後80年20紙企画】 (7) 《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(7) 1945年4月8日 沖縄・波照間島 波照間シゲさん(87)



■マラリア有病地疎開 「反対者切り捨てる」
「島の住民は一人残らず西表島に疎開せよ。反対する者は切り捨てる」
1945年4月8日、それまで優しかった「山下先生」が豹変(ひょうへん)した。軍刀を振り回し、波照間島の全住民にマラリア有病地の西表島南風見地区への疎開を命じたのだ。
山下虎雄は陸軍中野学校出身の離島残置工作員。本名(酒井喜代輔)と身分を秘匿して青年学校の指導員をしていたが、この日を境に軍曹になった。
波照間シゲさん(87)は当時7歳だった。数日後の闇夜、父、姉とともに漁船で南風見へ。着いた先はうっそうとしたジャングル地帯。先に疎開していた母が駆け付け、「悪い病気に負けないように」とおまじないをかけてくれた。一家は、即席のかやぶき小屋に身を寄せた。
山下は児童にハエ捕りのノルマを課し、達しない場合は容赦なく青竹で殴打した。シゲさんは姉とともに川への水くみを任されていたため難を逃れたが、親戚の兄さん(13歳)は背中を殴られたことが原因で死んだ。背中に青黒いあざが3本残っていた。「骨が折れていたのかもしれない。(山下のことは)みんな怖い怖いと恐れていたよ」
梅雨入り後、マラリアを媒介する蚊が異常発生し、罹患(りかん)者が一気に広がった。激しい悪寒に40度近い高熱。犠牲者が続出した。
疎開が解かれ、波照間に帰島した後も病が猛威を振るい、毎日のように死人が。家族16人のうち子ども1人だけが生き残った世帯、家族全員が亡くなった世帯…。シゲさん一家も4人全員が罹患し、シゲさんは何とか生き永らえたが、最愛の母が息絶えた。42歳だった。
棺おけが足りず、多くの遺体がござで巻かれ、近くの浜へと運ばれた。「本当にかわいそうでね。思い出すと涙が出てくるさ」
波照間島では全住民の約3分の1が「八重山戦争マラリア」の犠牲となった。昨年6月、強制疎開先の南風見を望む島の高台に慰霊碑が建立された。シゲさんは「子や孫に同じ苦しみを味わわせたくない。戦争は絶対にやってはいけない。平和が一番だよと伝え続けたい」と語る。
地獄の日々から80年。政府は「台湾有事」を念頭に宮古、八重山を対象に住民避難計画を練っている。波照間島の島民は長崎へ避難させようとしているが、「二度と疎開はしたくない。皆が行っても私は島に残る」と心に決めている。「行った先で何が起こるか分からないから。島が一番安全だから」。あの日と今を重ね合わせている。(八重山毎日新聞・﨑山拓真)
★八重山戦争マラリア
太平洋戦争の末期、沖縄県八重山地域では日本軍の作戦展開の必要性から住民が悪性マラリアの有病地域である石垣島、西表島の山間部への避難を強いられ、3600人余りが犠牲となった。波照間島は人口約1671人で、戦没者593人のうちマラリアによる死者が552人(93.1%)にのぼった。
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