《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(12) 1945年7月4日 徳島 美馬礼子さん(88)



■焼夷弾 弟抱く母犠牲 飛び込む川 妹も失う
意識が戻り、目を開けると、おぶっていたはずの3歳の妹がずぶぬれになって岸壁に横たわっている。既に虫の息で、小さな手で地面の砂をかきむしっていた。その後の記憶は断片的だ。
1945年7月4日未明の徳島大空襲。当時8歳だった美馬礼子さん(88)=徳島市八万町夷山=は一緒に逃げていた妹、そして母、弟を失った。「なんで死んだのか」。80年の月日が流れても、昨日のことのように思う。
当時暮らしていたのは、川が近くに流れる同市中洲町。父は旋盤工で、船のスクリューを作る小さな鉄工所に勤めていた。工場の敷地内にある社宅が住まい。両親、兄、妹、弟との6人家族だった。
3日夜、警戒警報が鳴ったものの解除。深夜、今度は空襲警報のサイレンが響いた。外に出ると既に焼夷(しょうい)弾が降り注いでいた。警備係だった父は工場へ。美馬さんら5人は中庭の防空壕(ごう)に向かった。壕は狭く、5人が入るとぎゅうぎゅう詰めになった。中は次第に暑さを増す。「このままだと周囲が火の海になる。川へ逃げよう」。母の言葉で外に出た。
美馬さんは妹を背負って必死で新町川を目指した。途中でげたが脱げたが構わず、熱くなった道をはだしで走った。川に飛び込む。その瞬間、衝撃を受けて気を失った。
焼夷弾の破片が当たっていた。今でも頭と足に傷が残る。1歳にもならない弟を胸に抱いて美馬さんの後ろを走っていた母は焼夷弾の直撃を受けた。2人は即死だった。
美馬さんは川の中で意識を取り戻した。溺れないように必死でつま先立ちをし、妹らを探した。川に浮いていた妹を岸壁に引き上げたのは兄だったと後から知った。
母らの遺体は見ていない。だからなのか、亡くなった実感はなかった。「なんでお母さんおらんの」。父にそう問い続けた。
家は焼け、残された3人は中洲町から同市八万町に引っ越した。5キロほどしか離れていないが、転校先の小学校では、同級生は誰も空襲に遭っていない。被害について聞かれないし、美馬さんも言わなかった。
食事の用意をする母に「今日もまたジャガイモ?」と聞いて困らせた日常を今も思う。父や兄は既に他界。空襲について2人に尋ねたことはない。今となっては悔いが残る。
ガザやウクライナで家族を失った子どもたちの姿がニュースで流れるたび、自分と重ね合わせる。「どんなことがあっても生きて」。テレビの画面越しに強く祈る。(徳島新聞・木下真寿美)
★徳島大空襲
1945年7月4日未明、太平洋のマリアナ諸島から出撃した米軍のB29爆撃機129機が徳島市上空に襲来。約2時間にわたって大量の焼夷弾を投下し、旧徳島市の約6割が焼失した。死者は約1000人、負傷者は約2000人、被災者は約7万人に上った。
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