【あの時私は 戦後80年20紙企画】 (5) 《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(5) 1945年3月18日 京都 川那部浩哉さん(92)



■家取り壊し 猶予3日 建物疎開、補償わずか
1945年3月、日本の大都市に空襲が相次いだ。10日に東京、13日に大阪が焦土と化す中、京都市で18日、住居や店舗を破壊する第3次「建物疎開」が始まった。対象は1万戸。空襲の延焼防止のため、人々の生活基盤が公権力に奪われた。
川那部浩哉さん(93)=京都府木津川市=の実家があった京都市下京区の「専福寺」も姿を消した。チンチン電車が走る烏丸(からすま)通と呉服関連の店が並ぶ五条通の交差点そばにあった。
住職だった父は既に亡く、母ツヤさんと2人暮らし。当時、小学6年だった。帰宅すると、はがき半分ほどの大きさの紙切れがくぐり戸に貼られていた。
取り壊しを告げる京都府の通知だ。3日の猶予で立ち退くよう命じていた。「どうしたらいいか困った後は忙しさだけ。頭は空っぽで、とにかく動いた」
仏像や仏具を門信徒宅へ避難させた。必要最小限の家財道具を運び出すので精いっぱい。父が残した貴重な書籍も置き去りになった。5カ月後の玉音放送までに、居所を3カ所も転々とした。
ただ、軍国主義の下で教育を受けた川那部さんにとって、耐乏生活は当たり前だった。家を奪われても憤りは感じなかった。終戦後すぐさま戦争賛美を翻した大人のようにはいかなかった。
建物疎開の理不尽さに思い巡らすようになったのは数年後。「何の意味があったのか」と悔しさが募った。「戦争に負けそうだから、無理もない」-。わが家を壊されたことが、そんな世情に流されたと思うと、肯定はできなかった。
大きな空襲を免れた京都市には建物疎開の跡地が広がった。空地は市民に戻されず、復興の名の下に幹線道路や公園に変貌した。
川那部家の寺跡は、幅50メートルに広がった五条通のアスファルトに埋まる。補償金は微々たる額だったという。
64年に亡くなった母は終生、この付近を訪れなかった。転居先で仏像をまつり、門信徒の訪問を受け入れ続け、「専福寺」の名前を守った。
母の死後、駆け出しの研究者だった川那部さんは自らの判断で寺を閉じた。京都大で生態学の道を突き詰め、琵琶湖博物館(滋賀県)の初代館長も務めた。仮に建物疎開がなく寺が残っていたら…。「今、僕はどうしているだろう」。複雑な表情を浮かべた。(京都新聞・本田貴信)
★建物疎開
空襲の被害軽減などを目的とする旧防空法に基づき1944年以降、全国で61万戸以上が強制的に破壊された。延焼防止のため、都市に空地帯を造成するのが狙い。京都市内では、京都府が4次にわたって執行し、45年3月18日開始の第3次が最大規模となった。取り壊しには町内会や学生など多数の市民が動員された。