【あの時私は 戦後80年20紙企画】 (13) 《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(13) 1945年7月7日 山梨・甲府 入倉武津子さん(88)



■「七夕空襲」一夜で灰 人焼ける臭い、街覆う
1945年7月7日未明、8歳だった入倉武津子さん(88)=山梨県富士川町=は母とはぐれ、燃える甲府市の街を逃げ惑っていた。「何してる、来い」と手を差し伸べた少年を焼夷(しょうい)弾が直撃した。赤い空を幾筋もの光が走る。「すいすい、流れ星みたい」。爆風を浴びて気絶した。七夕の日、甲府は内陸都市で最初の空襲の標的になった。
目を覚ますと、炎と黒煙の中に遺体が転がり、「おばけの行進」(入倉さん)のように血だらけの人たちがさまよっていた。背中のランドセルには火の粉で無数の穴が開き、土が詰まっていた。「うずくまるように倒れたから、ランドセルが『盾』になって命は落とさずに済んだ」
5人きょうだいの4番目として卸問屋や商店がひしめく街で育ち、甲府城跡が遊び場だった。江戸時代の趣が残る街並みを、米軍は作戦計画で「highly inflammable(非常に燃えやすい)」と評し、2時間でE46集束焼夷弾3655発を投下した。市内に拠点を置いていた旧陸軍部隊は沈黙。「市民が信頼していた部隊が高射砲で撃ち返す光景は、一度も見なかった」(入倉さん)
炎は何日もくすぶり、人の焼ける臭いが街を覆った。赤痢や腸チフスがまん延し、栄養失調で痩せ細った兄は病院に運ばれた。衛生状態の悪さから命を落とす人も。統計上の空襲の死者数は1127人だが、入倉さんは「(関連死は)ずっと多い」と言う。
思い出すのは、戦争末期を覆っていた異様な空気だ。甲府空襲の数週間前だっただろうか。空襲警報が鳴り、近所に住む一家の父親が、はぐれないよう、子どもたちの体を縄で囲って逃げ出した。「男があんなふうに逃げて」。母のつぶやきには「非国民」の響きがあった。
戦時下で改正された防空法は空襲時の退避を禁じた。その場にとどまり、延焼防止に努めることが「国民の責務」だと。父は家庭を顧みず火消しの練習に明け暮れ、兄は落下傘で上陸する敵に備えて裏庭で竹やりを振るっていた。入倉さんは言う。「素人があんな炎を消せるはずも、米兵を倒せるはずもない。追い詰められ、冷静さを失った人間の、なんと愚かなことか」
「七夕空襲」から80年。戦禍を生き延びた人々の証言を「歴史の書き換え」とうそぶく政治家を見て、胸に湧き上がるのは怒り。そして、過去の過ちが忘れ去られることへの焦りだ。「80年前に比べれば、今は平和なのだろう。けれど、とても不安定だ」(山梨日日新聞・中嶋寿美子)
★甲府空襲
1945年7月6日深夜から7日未明、約2時間にわたり米軍が甲府市街地に行った無差別爆撃。「七夕空襲」と呼ばれる。B29爆撃機138機が出撃し、M69焼夷弾38本を束ねた、E46集束焼夷弾3655発を投下。1127人が死亡、8万6913人が被災した。市役所や主産業の生糸工場など市街地の約7割を焼いた。
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