【あの時私は 戦後80年20紙企画】 (2) 《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(2) 1945年2月7日 群馬・太田 竹井正衛さん(95)



■連日の空襲、怖さ今も 学徒動員、疲労と空腹
「お前たち、何やっている!」。怒鳴り声に驚いて目を覚ました。1945年2月7日深夜、中島飛行機の尾島工場(群馬県太田市)に学徒動員されていた竹井正衛さん(95)=同県高崎市下之城町=は、3交代勤務を終えて熟睡していた。
寮の4人部屋。1人が明かりをつけようとすると、「ばか者! 今、何だと思っている」と再び教官の大声が飛んだ。全員が両頬を平手打ちされ、ようやく空襲だと気付いた。既に寮の全員が避難していた。あの夜の出来事は頬への衝撃とともに深く記憶に刻み込まれた。
44年4月、戦時非常措置により、竹井さんが通っていた高崎商業学校は高崎工業学校に統合された。当時14歳。3年生だった竹井さんら約200人が動員された尾島工場で造っていたのは零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の主翼と脚だった。
空襲は日常茶飯事だった。工場から寮に戻っても、脚を守るゲートルは毎晩、履いたまま。あの夜、照明弾で昼のように明るい夜道を夢中で走り、500メートル先の防空壕(ごう)に駆け込んだ。恐怖を抱きながらも「またか」と思った。
衛生環境は悪く、寮で生活し始めて3カ月もたたないうちにダニやノミ、シラミがまん延した。鉄釜に湯を沸かして衣類を入れると、うわべに10センチほども死骸が浮いた。「毎日が疲労や空腹との闘いだった」
14、15歳の子どもにとって、2カ月に1度の帰省が最大の楽しみだった。父が作ってくれた「炒(い)り豆」を持って寮に戻る時、家の玄関で靴ひもを結びながら、1人で涙を流した。
45年2月は大量の焼夷(しょうい)弾と爆弾を積んだ米軍のB29などが飛来し、空襲は激しさを増していった。連日、千葉・房総半島沖の米空母からグラマン戦闘機が内陸にやって来た。低空から姿を現し、両翼の機銃から砂煙を上げて銃弾が近づいてくる。皆で水路に身を隠し、難を逃れた。尾島工場が被弾することはなかったが、「あるもの全てを破壊する怖さは今でも脳裏から離れない」と竹井さんは言う。
今は妻の美津恵さん(87)と穏やかな生活を送り、孫やひ孫の誕生と成長に幸せを感じる。それでもあの時代を振り返るとき、自然と語気は強まる。「終戦ではなく、敗戦です。多くの犠牲を出した。生易しい言葉で80年を迎えたくない」
(上毛新聞・丸山朱理)(随時掲載)
★中島飛行機
尾島町(現群馬県太田市)出身の中島知久平が1917年に創立した。日本最大の航空機生産会社に成長し、全国に工場を建てた。従業員約25万人を抱え、約2万5000機の飛行機を生産。学徒動員は44年4月ごろから本格化し、陸軍機の太田製作所、海軍機の小泉製作所や尾島工場などへと派遣された。