《連載:あの時私は 戦後80年20紙企画》(9) 1945年4月26日 愛媛・今治 新居田大作さん(90)



■突然の時限爆弾恐怖 戦後も土中に不発弾
1945年4月26日夕方。小学4年生だった新居田大作さん(90)=愛媛県今治市=は地響きと爆発音を聞き、驚いて自宅を飛び出した。300メートル余り先の家から、真っ赤な火柱が立ち上っていた。市内が米軍の大型爆撃機B29の初空襲を受けたのは同日朝。避難した市民も家に戻っていた。
爆発で犠牲者は出なかったが、約9時間後に突然襲ってきた時限爆弾の恐怖。「戦後調べたら、米軍は今治に飛行場があると誤認していたらしい。滑走路を使いにくくするよう、通常爆弾に時限爆弾を交ぜて投下した。市民は米軍の意図は分からんから、自分が狙われたと思いますよ」
45年3~4月、新居田さんは米軍艦載機やB29を何度も目撃したが「地方の小さな街が狙われるはずがない」と思っていた。しかし26日朝は、今までとは明らかに違うB29の接近音。家族と自宅の庭の防空壕(ごう)に逃げ込み、目や耳をふさいで耐えた。空襲後は、近所の被害を見て回った。駅に爆弾が落ちたと聞いて見に行くと、不発弾が大きな穴を開けていた。
約2週間後の5月8日には、命の危険を感じた。同じように防空壕に避難したが、音や衝撃が前回より大きい。「B29のゴォーという爆音がふっと消える。ザザー、ガガーと爆弾が空気を切る音。直後にドガンドガンと突き上げるような振動がくる。近くに落ちんことを祈るしかなかった」。このまま市内にいては危ないと、家族で島しょ部に疎開し、終戦を迎えた。
戦後の86年、市職員を務めていた新居田さんはあの日の爆弾と出合う。担当していた国鉄今治駅再整備の工事現場から、時限爆弾の不発弾が見つかったと報告を受けた。駅で見た不発弾とすぐ分かった。図面を比較しても間違いはない。「撤去されたと思ったが、戦後も土の中でずっと危険が残っていたんだな」
退職後は、多数の犠牲者を生んだ3度の空襲の戦災調査と記録に尽力した。証言を集めるだけでなく米軍側の資料も調査し、被害の全体像を本やDVDにまとめた。「軍人と違い、民間の犠牲者は記録が残っていない。名字しか分からん人もいてあまりに気の毒だ」
地元の寺の協力を得て575人分の氏名を調べ、市内に建立した「戦災の碑」に名簿を納めた。碑には、新居田さんたちの深い願いが込められている。「今日の平和に至るまでに多くの犠牲や復興への苦難があったことを忘れないでほしい」(愛媛新聞・西開地恭輔)
★今治市の空襲
愛媛県今治市は1945年4月26日、5月8日、8月6日の3度にわたる空襲を受け、市街地の76%が焼失する被害を受けた。今治市の戦災を記録する会の調査では、民間人の犠牲者575人以上。学徒動員の女学生や、今治郵便局の電話交換室で執務中の女性職員らが含まれていた。
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